大阪育ちのナガサキが熊本ではたらくブログ

~東京生活を捨て、妻と子供と熊本へ移住をし、地方の可能性を発信する夢見がちな一般ピーポーの日々~

村上春樹氏の職業としての小説家を読んだら思ったよりも納得感があった話

   

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村上春樹が好きな訳です。

好きって言っても、「ノルウェイの森」を読んだことと、「海辺のカフカ」の上巻の3分の2を読んだ程度なのですが、好きだと認識している訳なのです。なんで好きなのかは正直よく分かっていませんが、このよく分からないことを、ずっと言葉で追いかけていくと、こういうことになるのかなという、回りくどいけども、その回りくどさの中に気付きや、大切なことなのかもしれないという発見をしたような気がするという、この気がするところに何かしらのメリットを持っているのだと思っております。ここまでの説明自体が、で?結局何が言いたいの?となる訳で、そのまま答えようとすると「理由はよくわからないけども、村上春樹が好き。言い回しに何かしらの意味を見つけられるから」みたいになるんでしょうけども、それでは味気なくないすかってタイプの人間が自分だなと改めて理解しました。最近、読んだホリエモンの本「君がオヤジになる前に」

では「小説読むなんて意味ない、あんなの一行で言えることを長々と書いてあるだけで、かけた時間に対しての情報量が少なすぎる」という至極真っ当なご意見があったのですが、僕が取得する情報と言うのは、そこに直接的に書かれているもの以外にも、勝手に想像するものとか、想像させてくれるための機会になるものとか、そこに醸し出される空気感とかも含まれるため、情報量が少ないとは感じない方だなと、その違いも理解する訳です。

小説家と名乗ることの難しさ

ということで、「職業としての小説家」

読みました。こういう文体のもの久しぶりに読んだので、やっぱ面白いなと。なるほどーっと思った点を、羅列いたします。

仮にある小説家が歌がうまくて、歌手としてデビューしたとします。あるいは絵心があって、画家として作品を発表し始めたとします。その作家はまず、間違いなく揶揄嘲笑の類を浴びせられることになるでしょう。「調子にのって場違いなことをして」とか、「素人芸で、それだけの技術も才能もないのに」みたいなことをきっと世間で言われるでしょうし、専門の歌手や画家からは冷たくあしらわれることになりそうです。

ところがその逆の場合、たとえば歌手や画家が小説を書いたとして、あるいは翻訳者やノンフィクション作家が小説を書いたとして、小説家はそのことで嫌な顔をするでしょうか?たぶんしないと思います。実際に歌手や画家が小説を書き、翻訳者やノンフィクション作家が小説を書き、それらが高い評価を受ける場合も少なからず見受けられます。しかしそれで小説家が「素人が勝手なことをしやがって」と腹を立てたというような話は聞きません。悪口を言ったり、揶揄したり、意地悪をして足をすくったりするようなことも、少なくとも僕が見聞きした限りにおいては、あまりないようです。

それはどうしてでしょう?僕の思うところ、答えはかなりはっきりしています。小説なんて-「小説なんて」という言い方はいささか乱暴ですが-書こうと思えばほとんど誰にだって書けるからです。

しかし、リングに上がるのは簡単でも、そこに長く留まり続けるのは簡単ではありません。小説家はもちろんそのことをよく承知しています。小説をひとつふたつ書くのは、それほどむずかしくはない。しかし小説を長く書き続けること、小説を書いて生活をしていくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業です。普通の人間にはまずできないことだ、と言ってしまっていいかもしれません。

誰にでもできるからこそ、そこで突出し続けることの難しさが、たしかにそうだなと、めっさ納得した訳です。

小説家になるために重要なこと

続いてこちら。

若い人たちから「小説家になるためにどんな訓練なり習慣が必要だと思うか?」と真剣な面持ちで質問されると、「いや、そんなことちょっとわかりませんね。すべては勢いと成り行きみたいなものですし、運も大きいですから。考えたら、おっかなく話ですよね」みたいにあっさり片づけてしまうわけにもいきません。そんなことを言われても、向こうだって困るでしょう。場がしらけちゃうかもしれない。だから僕としてもいちおう真剣に正面から「さて、どういうものかな」と考えてみます。
それで僕は思うのですが、小説家になろうという人にとって重要なのは、とりあえず本をたくさん読むことでしょう。実にありきたりな答えで申し訳ないのですが、これはやはり小説を書くための何よりも大事な、欠かせない訓練になると思います。

唯一としての方法は「本を読め」と。これ、村上春樹氏が言うととんでもなく説得力あるなと。

小説家にとって大事なことは

最後にこちら。

長い歳月にわたって創作活動を続けるには、長編小説作家にせよ、短編小説作家にせよ、継続的な作業を可能にするだけの持続力がどうしても必要になってきます。それでは持続力を身につけるためにはどうすればいいのか?
それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものです。基礎体力をつけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の体を味方につけること。
世間の多くの人々はどうやら、作家の仕事は机の前に座って字を書くくらいのことだから、体力なんて関係ないだろう、コンピュータのキーボードを叩くだけの(あるいは紙にペンを走らせるだけの)指の力があればそれで十分ではないか、と考えておられるようです。
しかし、実際に自分でやってみれば、おそらくおわかりになると思うのですが、毎日五時間か六時間、机の上のコンピュータ・スクリーンの前に(もちろん蜜柑箱の上の四百字詰原稿用紙の前だって、ちっともかまわないわけですが)一人きりで座って、意識を集中し、物語を立ち上げていくためには、並大抵ではない体力が必要です。
強固な意志を長期間にわたって持続させていこうとすれば、どうしても生き方そのもののクオリティーが問題になってきます。まず十全に生きること。そして「十全に生きる」というのは、すなわち魂を収める「枠組み」である肉体をある程度確立させ、それを一歩ずつ着実に前に進めていくことだ、というのが僕の基本的な考え方です。肉体をたゆまず前に進める努力をすることなく、意志だけを、あるいは魂だけを前向きに強固に保つことは、僕に言わせれば、現実的にほとんど不可能です。

落合監督も「心」「技」「体」ではなく、「体」「技」「心」だ、というようなことを言っていて、体を強くしておくことの重要性を改めて理解する訳です。従って、これからはもはや、体以外に興味を持つことを排除し、体の体による体の為の生活を送り続け、ただただ体目当てに、体だけを目当てに、やっぱり体だけが目当てだったのねと言われ続けるためだけに、命を賭して男優として生きていかねばならぬのだと理解することは、無理があったので、やめました。

ほな

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