大阪育ちのナガサキが熊本ではたらくブログ

~東京生活を捨て、妻と子供と熊本へ移住をし、地方の可能性を発信する夢見がちな一般ピーポーの日々~

熊本地震をまともにくらった4日間の話

   

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阪神大震災も、東日本大震災も、体験しているのですが、ライフラインの停止に至るまでの
経験はなく(計画停電を一回経験しましたが・・・)、今回は初めて被災するとはどんなことなのかが
少しは分かったので、地震が起こってから電気が復活するまでの間のことを書いておきます。

4月14日(木)

その日の夜は、四人で飲み会があった。車なので飲まないのだけども、熊本で関西人が3人、
東京生活が長かったソウルはガンナム育ちの初めて会った韓国人が1人の計4人で平和にやっていた。
玄関
すげー良いお店で、刺身が凄い良い店だった。
これで三千円弱だったと思う。
刺身

アックジョンに住んでるとか言うから、さてはお前金持ちやなみたいに韓国人に詰め寄りながら、
その方は島田紳助を日本語の師匠としてて、基本的には笑いを取りにいきたくなってしまうけど、
りきむとカタコトになってしまって、ドラゴンボールの「ブロリー」って言えば、絶対に笑いがとれるところを
「ブロォーリー」とか言っちゃうから、みんな一瞬、え?ってなってもーて、なかなか笑かせないみたいな話をして、ゲラゲラ笑ってた。
そのちょっと前には隣のお客さんが、僕の背広に水をこぼしたので、そのお詫びにとソフトドリンクと、
飲める人の生ビールを頼んでくれたりして、いやー、逆にこっちが儲かりましたーみたいなことを言って、
本当に普通の日常の面白い寄りの時間を過ごしていて、
あと一時間もすれば店を出るから、なんか締めのメニューでも頼もうかとしている時だった。

その瞬間(21時26分)、物凄い音がして、僕は玄関の方を見た。車が突っ込んできたようなそんな音だったからだ。
でも、何秒かして分かったのは、地震だと言うことだった。悲鳴と共に、ボトルキープの棚からは焼酎の瓶が床に落ちて割れていき、
目の前の生簀はどんどん壊れていった。なす術なく、斜め前の先輩と、これやばいなと言う顔をお互いし合っていたように思う。
僕は、ここ熊本やのになんで?と激しい揺れの中で、どこか納得がいかず、壊れた生簀の水が床に溢れ出ていく様を眺めていた。
家族は大丈夫だろうかと不安にもなった。
揺れがおさまる頃には店内はめちゃくちゃで、お客はみんな外に出て会計を待った。
幸い電話も繋がる状態で家族の無事もすぐ分かった。色んな人からのラインやメッセンジャーが鳴りまくり始めていた。
warebinikesu

店の女の子は泣いていて、混乱しながらテーブルから落ちた酒がかかったお客さんにすいませんと謝っていた。
それを聞いたお客さんは、あんたが悪い訳じゃなかよと励ましてはいるものの、みんなその瞬間に起こっている
出来事を上手く理解できないでいた。店のマスターは落ちた瓶で怪我をしたのか、足からはかなり出血していて、
救急車を呼ぶと申し出たが、断られた。まずは店を整理してからだと。女将さんが対応するとのことで、それ以上の申し出は止めたが、
すごく心配だった。お店の女の子が会計を持って来てくれたが、3万円近い会計で、ちょ、ちょとまて、となったので確認して貰ったら
隣のテーブルと間違っており、僕らは一万円だった。そこはやっぱ確認すんねやなと自分でも思った。

この時は停電も起こっておらず、ガソリンスタンドも空いていたので、少し並んで満タンにしておいた。帰りにコンビニに寄るが
既にカップラーメンや水は買い占めが始まっていた。
僕は500ミリの水と板チョコをなんとなく気を紛らわせる為に買って家に向かった。
いつもの帰り道なのに全然家に着かなくて、物凄く長く感じた。これからを思うと、職場の復旧とかも含めて時間かかるのかなとか、
もしかしたら、ちょっとの差でもう死んでしまってたのかなとか思うと運転しながら、泣きそうになっていた。
助かったなとか、怖かったなとかそんな感情が混ざり合っていた。
家に着いたら皆が居た。まだ心臓はバクバクしている感じだったが、少しずつ落ち着いて、確かシャワーを浴びたと思う。
阿蘇の親戚とも電話が繋がったようで、とりあえずの安堵感があった。
まだ余震が頻発していて、深夜2時近くでも地震速報がよく鳴っていた。
休むのも重要と寝室に向かった(今考えると恐ろしいが・・・)。
明日は一旦通常出勤にするから、来れるようであれば出勤と言う連絡がきていた。

4月15日(金)

お父さんも僕も出勤することに。テレビからは特に被害が甚大だった益城町の様子が
流れている。自宅のライフラインには支障が無かったので、コーヒーを飲んで朝ごはんを食べて出発。
道路は渋滞気味であり、一部の店舗は壊れているように見えた。
会社は水道管が壊れたようで、事務所の中は水浸しになっていた。
復旧するには時間がかかりそうだった。
午前中で会社の片付けを終えて、一旦解散。帰り道に、すき家や一部の飲食店は開いていて、
こういう時に営業するお店は格好良いなと感じながら、ジャスコが開いていたので、カップ麺とかお菓子とかいくらか買う。
パンや総菜は既に無く、こうやってだんだん手に入りにくくなるんだろうなと、東日本大震災の時を思い出した。
その後、自宅に戻り子どもたちは暇なので、虫取りに出かけたり、昼寝をさせたりで、半分休日のような時間を過ごしていた。
正直、もうこれ以上大きいやつはこないと何となく思っていたし、夜は普通にお風呂に入り、夕食もまともに食べて妻はビールを
少し飲んだりしていた。昼に買ってきた、若干の非常食は食器棚の奥にしまい、まずは体を休めようとみんな早めに寝室へ向かった。
土曜日は久しぶりにゴルフをする予定であったがキャンセル。
そのあと、南阿蘇でairbnbを駆使したりして、面白いことをしている人に
会いに行く予定だったがそれも無くなった。
その方のブログ
http://local-life-in-aso.kyushu-local-travel.com/?page_id=30
来週の東京方面出張も無しだろうなと、目先のスケジュールを考えたりした。

4月16日(土)

1時25分。寝入っていた。揺れを感じた時は、どうせ震度4ぐらいだから大丈夫だろうと思っていた。
しかし、すごい音と共に次第に強くなっていって、今までの経験を遥かに超えていった。こんなに揺れると家が持たないかもな、
ていうか、こんな手加減なしなんやなと、圧倒的な無慈悲を感じながらも、大声で「大丈夫!大丈夫やから!」と
叫び続けることしか出来なかった。豆電球の明かりが切れたので、停電したと分かった。
ベッドの間に子供が挟まらないよう、どう踏ん張ったら良いかも良く分からないまま、
ベッドから落ちないように子供を必死に掴んでいた。

揺れがおさまり始め、皆が無事なことを確認したが、何をして良いか分からない。
いろんな棚が倒れたりで、脱出をしないといけないのは分かっているものの、
頭が真っ白で、とりあえず靴下はみんなに履かせた方がいいなぐらいしか分からず、
「靴下は履こう」と声掛けをして、倒れたタンスから取り出すようにした。
外では、滝の流れるような音がしていて、激しい雨が降っている気配がした。
窓を開けると、向かいの方が大丈夫かどうか大声で確認してくれていた。
こちらは大丈夫ですと大声で返事をした。滝のような音は、向かいの家の
エコキュートが道に飛び出していて、そこから水があふれ出ている音と分かった。
雨で無くて良かったが、異様な光景だった。
別の部屋に寝ていた、妻の妹はいつもズタ袋みたいな茶色いパジャマを着ていて、
余りの部屋の汚さに靴下が探し出せず(単に片付けをしないから)、両親の部屋に
余った靴下が無いかと探しに行き、母親から差し出されたクリスマス仕様の靴下に、
「いや、これ履いて、茶色のズタ袋パジャマやと避難所でトナカイ扱いされるから
別のにして欲しい」と懇願し、切羽詰まった状況で母を追い込むも、我を貫き通していた。
さすが、同じフードコート内のリンガーハットと桂花ラーメンで、どちらにもチャーハン単品のみを頼んだだけある。
その時のチョイスは天才的であった。

食器棚も倒れていたので、あたりはガラス類が散乱していて、
昼に買ってきたカップ麺やお菓子なんかは取り出せず、
その逃げる準備をしている最中にも、けっこー大きな余震が来ていて、
テンパり度合いは増した。
結果として、いくらかの水と取り出せる分のお菓子やオムツを持って逃げた。
懐中電灯が無いから探すだとか、そんなのはもう後にして、はよ逃げようだとか、
緊急時のオペレーションて凄く難しいと思った。

うちの出発は遅く、近所の方々は既にいらっしゃらない様子だった。
お隣さんは車のバッテリーがあがってしまっていたようで、お父さんの車はその対処が
終わってから向かうと、みんな悲壮感が漂っていた。
幸い避難場所は家から車で3分程度なので、すぐに着いた。
確認出来る情報で見ると、今回が本震だという。規模が大きいことが分かった。
yonaka

どんどん集まるヒステリックな車とは裏腹に、星空は物凄く綺麗で、少しホッとした。
逃げた後にようやく何が無いだとか、靴下履いて無いだとか、次家に入ったらやること
だとか色々浮かんできて、夜明けを待った。
yoake

その後のニュースはやっぱりかと言うぐらい、いろんなものがやっていた。
阿蘇大橋、阿蘇神社、熊本城、どれもショッキングな訳だけども、
阿蘇神社は、子供ら二人のお宮参りに行った場所だし、熊本に初めて来た時に
雰囲気のある良い場所だなと好きなとこだったので、辛かった。

家に一旦帰った。ライフラインは完全に停止。

夜中の滝の音の原因はこれで、
eko

家のエコキュートも反省状態、
hansei

キッチンはどんがらがっしゃーん、
gatyan

で、水は濁っているがかろうじて出たので、とりあえず浴槽に溜めた。
着替えだったり、毛布だったりを詰めながら、お母さんたちは、思い出の
食器が割れていたりするのを確認していた。気丈にしているようであったが、
表情が何とも言えなかった。家の個所個所にはヒビが見えたが、
まずは倒壊していないことに感謝した。
オール電化住宅でカセットコンロが無いまま過ごしていたので、
登山時に使用するガスバーナーしかなかった。
火力は弱いが、なんとなくお湯をポットに入れて持っていこうとある程度
温めていたところで、大きな余震が来た。慌てて逃げようとしたのだが、
貴重な水を貴重なガスで温めたことに踏ん切りがつかず、そのまま玄関先で
湯を沸かし、みんなで急いでコーヒーを飲んだ。こんな時に庭でコーヒー淹れてる人
おらんよなと、笑い合った。

避難所は初日ということもあり、水も食料も特になし。
夜中に使用されたトイレが凄いことになっているようで、おぞましい臭気が
漂い始めていた。乳児や、お年寄りはいきなりのこの環境相当厳しいよなと
思い知る。水や電気が止まると言うことは、衛生環境を著しく悪化させるんだなと
改めて理解した。
なので、基本的には外に出て、車との往復をしていた。
fuukei

のどかな風景に、水もなんだかんだ言って川に行けばあるし、
食べ物も畑のやつ貰って煮炊きすれば何とかなるかもな、みたいな気持ちになった。
自給自足ってこういう時、最強なんかもなと感じた。
逆に避難所の中にしか居られないとなると、滅入り方は尋常じゃなくなるなと初日に
して辛さが分かった。
夜に一人一個だけおにぎりが配られた。正直、その日はお菓子と水ぐらいしか食べてなかったから、
おにぎりは美味しかった。だけども、これが2-3日続くと厳しいなと先が思いやられた。
そんな時の、フェイスブックの投稿へのコメントは嬉しかった。困ったら全力で助けてと言おうと思った。
夜は物凄い風と雨で、車中で寝ながらも落ち着かなかった。

4月17日(日)

電気が復活した。昨日までポテトチップスを分け合ったり、ホットケーキを焼いてそれをチビチビ
食べたりしていたのが、嘘のように炊き立てのご飯をおもっきり食べられるようになった。
この日の朝に出てきたご飯の味は本当に忘れないと思う。お腹が空いていたからもあるが、食べ物を得られないのではないかという不安が
大きく払拭されたという安心感が最も大きかった。たった一日で復旧が出来るのもほんとに凄いなと感じた。単純に感謝であった。
しかしながら、止めた方がいいやんて言うタイミングで止めない川内原発の姿勢については、かなり違和感を覚えた。
既にいろんな理由でコントローラブルでは無いのだろうか。
非常時にも動かし続けなければならない、もしくは止めても意味がないということであれば、それって大丈夫なんだろうか。
そんなことも電気が通った時には考えた。

この約4日間で分かった地震への心構えと、必要物についてはまた別に書きます。
長文お読みいただき誠にありがとうございます。長い話でえろうすんまへん。

ほな

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